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第12回サイゼミの日の日記


サイゼミのために大阪から夜行バスで来る人が2人いるの凄い事だと思う。

長距離移動というと自分にとってはゲームかメイド喫茶か人に会うために突き動かされてやるもので、それらと同じくらいサイゼミが魅力を持ったものなのだと考えると何かおもてなししなきゃという気持ちになる。
実際、ちゃんとおもてなしされに来てよ!(予告なしに突然大阪から会場に来たため)と言っておきました。

 

「みそは入ってませんけど」みそ氏初登壇!NP完全を完全攻略

会ってみたら殆ど詐欺的なほど好青年で知られるみそ氏。彼の脳みそから迸る電流はレンタルルームを支配していた。

彼の講義に適切にツッコミを入れつつ笑う事が出来る人間がこの世に何人いるのだろうか、今まで自分が早口オタクなどと名乗っていたのが恥ずかしくなる超高クロック講義だった。

それでいて質問にはちゃんと答えてくれるものだから、概要は掴めたと思う。
今回は聴衆としてかなり意識的に多めに質問を投げてみたのだが、効果はあったと思う。

単に分からない事を質問すると分かるという効果以上に、対話するとなんだかスッと頭に入ってくる効果が自分の特性としてある。

 

 

"「NP完全」という言葉を聞いたことがあるかもしれない。「P=NP問題」という言葉にも聞き覚えがあるかもしれない。それは何かこう不思議な響きがして――何せ完全なのだ――しかもモダンな印象を与える。使うとインテリっぽい気分にもなれる。その問題はNP完全だから……。 "(みそ氏の講義レジュメより引用)

 

NP完全は確かにカッコ良かった。恐らく本当に先端付近を走っている理論のせいなのか、話の道中に「まだよく分かっていません」や「実用としては使えていません」が頻出するのが凄かった。

 

何というかこれはもう講義に関係ない自分語りだが、人間が好奇心を理由に何かをする事をなかなか正当化出来ない風潮を最近感じている。

何の役に立つんですか?という実用主義の話よりもう少し広い気がして、なんか何事にも正当な理由付けを要求されるというか、そうでないと見向きもされないというか。

今回のNP完全の講義を終えてカッコ良かった…と思ったわけだが、何か久々にピュアな好奇心が満たされたそんな気持ちになった。

何故なら私はhello worldしかプログラムを書けないから…

 

 

メイヤスー「有限性の後で」

正直に言うとめちゃくちゃ話が込み入っていて(哲学がこれまでに文脈を積み重ねすぎて?)なかなか真意を掴めたという感覚には至らなかったのだが、最近千葉雅也著「現代思想入門」を読んでいて(有限性の後での訳者は千葉氏)そこに書いてあった話が私の頭の中をぐるぐるしていた。

 

(サイゼミ聞いてないと多分この項は意味不明。)

 

哲学はその哲学書を読む解釈自体が分かれるし、読み方自体が研究みたいな学問なので本を引用するのに今凄くビビっているが、まあとにかくやってみる。「現代思想入門」で、フランス現代思想をつくるには4つの原則が考えられるという仮説が書いてあった。

 

4つの原則

①他者性の原則

その時代の前提となっている前の時代の思想、先行する大きな理論において何らかの他者性が排除されている、という事を発見する。

②超越論性の原則

先行する理論ではある他者性Xが排除されている、ゆえにそれを排除しないようなより根本的な超越論的レベル=前提を提示する。

③極端化の原則

排除されていた他者性Xが極端化した状態として新たな超越論的レベルを設定する

④反常識の原則(④は付け足し的かもと書いてある)

①~③を行うと反常識的な帰結が出てくるが、その反常識的なものが超越論的前提としてあり、常識の世界は実はその反常識によって支えられているという転倒に至る。

 

現代思想入門」自体が凄く丁寧にエッセンスだけを抽出して書いてあるのでそれを更に抜き出す事にビビっているが(2回目)確かに今までサイゼミに登場した現代思想たちってこの形をとっている気がしてきた…

今回の「有限性の後で」の話も、カントに始まった独断的実在論とそのフォロワーが唱える相関主義では「祖先以前性を扱えない」という他者性の排除(①)があり、それを排除しない前提として、世界が別様である可能性は想像でき、理由は不明だが今はたまたま存在している(②)とし、排除されている他者性の極端な状態つまり私たちの非存在の可能性もこの前提には含まれている(③)。すなわち偶然性の必然性、この世界は何の理由もなく別様の世界に変化し得るという真理が確立される。

 

という話だと理解しておいた。

 

それってコペルニクス的転回じゃなくてプトレマイオス的反転ですよね?は死ぬまでに一度使ってみたい。

ないでしょ、ちゃんと思い出して使える場面…

 

 

少女庭国が好きなオタクに勧める作品はあるか?

少女庭国〕 (ハヤカワ文庫JA) | 矢部 嵩, 焦茶 |本 | 通販 - Amazon.co.jp

文庫版の表紙がカッコ良すぎたので貼ってみた。私が読んだのはハードカバー版なのでこんなギョッとする表紙絵では全くない。女子生徒が歩いてるだけの絵だ。

月並みな言い方だが私は凄くこの作品が印象に残っている。奇書とか怪作とか言われる類の小説だが、好きとは少し違って(もちろん大好きだが)、とにかく強く心に焼き付いている。

何と今日になって気付いたのだが、数か月前ツイートで引用していたこの本のとても良い感想↓

note.com

の著者が今日サイゼミのために大阪から来た人だった。そんな事ある?

彼に思い切って、少女庭国が好きな俺に勧めるコンテンツ何か無いですか?と聞いてみて何作品か提示されたのだが、彼は何かしっくり来るのを提示出来なかったようで悔しそうにしていた。

そもそもこんな突飛な本の類似品を求めるのが無茶な話ではあるが、何かワンチャンありそうな作品があれば是非知りたい。

再読したくなってきたな。

 

サイゼミ女人禁制説

じわじわサイゼミ内でも話題に挙がっているし、サイゼミのバランサーとして頭角を現してきた私(私、は普通頭角を現さない。)もなんか一言言っておくかと思った。

まず自分個人の意見としては女性がいるならいたでサイゼミは面白くなるだろうと思っている。既に、異なる出自の人がいればいる程面白くなっていると思っているからだ。

 

それはさておき、女人禁制説が持ち上がる原因として主催(?)のLWがブログに質問への回答という形で女性に興味がない、必要以上の会話をする意思がない、と書いているからだろう。

彼はただ誠実に説明しているのに一部誤解されていそうなので敢えて援護しておくが、興味がない、会話する意思がないというのは一般にイメージされるネガティブな意味の興味がない、ではない。人間に対して興味がない、という言葉を使うと短絡的に嫌いに近しい印象を持つ人はまあまあいるはずだが…

そういう意味"ではない"事を説明するのは難しいが、例えばLWは職場では普通に女性とコミュニケーションをとって仕事をしているらしいし、こないだ誰かの家で遊んだ時に女性がいたけど普通に会話してた。(実例)

彼は偶然周りに女性がいないけど、それは恐らく全くの偶然ではなくてプライベートで自分からコミュニケーションを取る発想がないからだろう、という誠実な分析をして説明しているだけで、それ以上でも以下でもない。

 

で、そもそもサイゼミの興味の方向が男性オタクに寄っていて、話題に興味があるかは置いといて呼んでよいものなのか?つまり失礼にあたる事があるのではないか?という事に関してだが、サイゼミのメンバーは少なくとも私が知る集団の中では"自分が今何を言っているのか、を最もよく理解している人たち"だ。

異性への失礼の根本にあるのは大半がその"無自覚さ"から来るものだと理解しているが、それについてはむしろ一番信頼出来るとすら思う。

 

そもそも話に興味があるのかに戻ってくるが、全体として内容も会話もラディカルな傾向にあるのは間違いないし、それを受け付けない人は実際にいる。(いた。)

ただ、その辺の意見や雰囲気の相違というのはもうみんな大人なんだから、対話して参加するなり参加しないなりしましょう、むしろそのためにサイゼミという場があるようなもん、と思う。

 

まとめると、恐らくLWは一部の人に誤解されているだろうなという事と、サイゼミって集団はむしろ大人び過ぎているくらい大人なので(対話という点に関しては!)、大抵対話で解決出来るし何も問題なくないか?という事を書きました。

あといてもいいけどどうなるか分からない、という説も本当にどうなるか分からないから分からないと誠実に言っている(いたことがないから。)だけだよね…

なんか大きく出たけどこれに対してサイゼミメンバーが何か言おうとすると結構カロリーが要りそうなので先攻有利という事で好き勝手書いた。