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サイゼリヤのLWを読んで

サイゼリヤ

遊戯王繋がりで割と長らくFF状態にあるLWさんのブログだ

・面白い

話題が自分の興味あるものばっかりで面白い。暇な時に戻って過去の記事も読もう

・難しさが丁度いい

正直に申し上げて難しい単語が入った文章が苦手だ。

何を難しいとするかは人それぞれだけど、最近の"サイゼリヤの"記事で言うと寓意性、ミクロ/マクロなんて単語は分かるしすんなり読めるが難しいという認識

もっと難しい単語も出てくる

んだけど、難しい単語ってのは単に難しくするためではなくて物事をより正確に伝えるためにあるんだから、簡単な単語ばかりよりは自分がギリギリ分かる難しい単語が使われている文章の方がより正確に面白く読めるはず。

もちろん修辞(せっかくなので難しい言葉を使う)的な意味ではなくてな

・アウトプット

多分LWさんのブログはかなり質の高いブログに入ると思うんだけど(主観)こう自分の考えた事をきっちりアウトプット出来るってすげー事なんだと改めて実感した

文を読めて意味が分かるって事は執筆者としてのLWさんには思考やら語彙力やらが読者として追いついてるって事だ

だけどこれを自分の感想やら日記において同じ質でアウトプット出来るかって言ったら5000%出来ない。

人に説明するのは難しいから、100分かっててようやく50説明出来るのが限界なのか、100分かって100説明するための能力が足りないのか…

前者なら諦めは付くが後者なら勉強する価値はあるなぁと思ったり思わなかったり。勉強嫌いだから思わないか…

・勉強とは

何か今このタイトルを書いて、ここから話題が更にとっ散らかる予感がする。

アニメの感想にしても、カードの話題にしても、"サイゼリヤ"に隙のなさを感じるのは、単に書き方や話の進め方(例や言葉の説明、補足をたくさん入れる)の問題もあるが、テーマに対して自分より多くの知識を持っているからだろう。

そういう文章を読んでしまうと同じテーマについて書き始めた時、これ俺は知らないけど何かあるんだろうな…とか何かこれを表す言葉が存在する気がする…とかこれ何らかのツッコミが入るけどどんなツッコミが入るかまでは分からない…とか例えようのありすぎる具体的な不安が大量に襲ってきて筆が進まなくなってくる

常にそういう不安が襲ってくるから、自分はこの事についてはよく知りませんよ、という事を大げさに伝えるために細かいところを説明しない感想や日記が多いような気がする…

という事は何か勉強の放棄とか見栄とか何かしら名前がついてるんだろうな…とか考えると一生記事が完成しないのでこの辺にする

というところでやっぱりとっ散らかったので勉強とは。に戻る。

最近一生勉強っていう言葉の重みが自分の中で増して来てて、遊んでても仕事してても何かを考えると一生勉強しなきゃいけないんだなぁっていう結論がよく出る。

まあ一生勉強っていう考えが間違ってると論理立てて説明するのは無理だろうとして(ここでまたそういう哲学もあるんだろうな、でも知識がないから分からないな、とかは置いといて)

・感想

来ました本題。どこに着地するか決めずに書いてたんですけど、どうやら今回自分は勉強がしたかった模様。

ちょっとここから先述の不安と戦いながら書くので回りくどい文が多くなる事が予想されますがご容赦ください

他人の作品の感想とかを読む(聞く)時に、考察が深ければ深いほど"偉い"という理屈では説明出来ない感情が湧いてくる。

みなまで言わない、分かっててもアウトプット能力が足りないだけ、等あるかも知れないが、言わないと分からないという事で様々な視点から噛み砕かれた(噛み砕くでいいのかな?)感想は"偉い"と感じる。

ここで自分から見て偉いと思った"サイゼリヤ"の感想を一文借りる。LWさんとはマブダチなので一文くらい借りても大丈夫だ。

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まだ途中だし巻数も少ないのであまり言うことが無いんですけど、現時点での作品自体のクライマックスはトガタが活躍する二巻のあたりです。

トガタみたいに悪い意味でトリックスター的に機能するキャラ、実際の立ち位置はともかくメタ的な行動原理を持つキャラってかなり危険です。他のキャラや話の筋を馬鹿にすることができるために作品全てを矮小化するし、アグニの行動原理とも全然噛み合わないし、しばらくトガタの独擅場になっててこれはやばいな~と思ったんですけど、三巻あたりで擬装をテーマにトガタをうまく利用してアグニに話の筋を戻したのは凄いなと思いました。

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そこでああそんな風に見ることが出来たのか~確かにそうだな~と思うんだけど、もう1回作品を見る時の気持ちに戻って、鑑賞ではなくて考察的な視点でマンガを読むのって何か国語の試験問題を解いてるみたいで、本当に今と同じ楽しい感覚は維持されてるのかな?それとも全く違う感覚なのかな?読んでる時はそんな事考えてなくて後から思い出しつつ考察してるのかな?と

※ちなみに自分が意識しないというか意味は分かるけど読んでる時に絶対その言葉は頭に浮かんでこないという点は「トリックスター的に機能するキャラ」「メタ的な行動原理を持つキャラ」「アグニの行動原理とも噛み合わない」「トガタを利用してアグニの話に筋を戻した」

こんな考察文を書くには勉強が必要だけど、こういう視点を持ってしまったら今の楽しい感覚は失われてどんな作品を見ても楽しくなくなっちゃうんじゃないかな?と不安になる

今凄い量の不安が襲ってきてて、恐らくこの感覚には既に5000兆通りの回答が用意されていて芸術鑑賞は5000兆ステップ先に進んでいるんじゃないかと思うんだけど、今回は恥を捨てて他人はこれをどう思ってるかを聞きにきたのだ。勉強だ

聞きたい事の要点は

・鑑賞している時にこの考察文は頭に浮かぶのか?後から全て考えている事なのか?

・この文章のような受け取り方(アウトプット出来なくてもよい)が出来るようになった以降、以前で芸術鑑賞の楽しみ方、感覚は大きく変わったか?

・こういった"考察"の教科書は存在しないと思うが、どういった過程で自分の身についたのか?

※追記:LWさんが特別凄いと思っているわけではないので、質問に答えるのに気が引ける方は自分のアホみたいな感想を読んで、自分に自信を持ってこの上の質問に是非答えて頂きたいと思います

以上、いつも通り何も決めずに書き始めましたが思ったより最後の着地が決まりました。